5月 252016
 

「世界のニナガワ」と評される、演出家「蜷川幸雄」さんが亡くなった。

80歳の今も、現役の第一線の演出家だったことは、稀有な例だと言える。

蜷川さんに鍛えられ、一流の役者となった「藤原竜也」「小栗旬」「宮沢りえ」など、枚挙に暇がない。

シニア世代の素人に芝居をやらせたり、ロンドンなど海外公演を打って出たり、

生涯を舞台の一演出家として、全うした、見事な生き様であったと言えよう。

また、自作の公演よりも、シャイクスピアなどの古典や、唐十郎作品などのアングラを

現在に蘇らせた功績も大きい。

惜しむらくは、蜷川演出の後を継ぐ後継者を生み出せなかったことか・・・。

2年後まで決まっていた公演が、蜷川さんの死によって中止となってしまったことは、

偉大な演出家を失ったことと同様、日本の演劇界にとって、大きな損出と言えるだろう・・・。

 

1月 192016
 

15歳、中三の多感だった少年時代、彼と出会った。

私がバスケット部、彼はサッカー部だった。

大きな目で色白で、シャイだが芯の強い人だった。

いつしか、気の合う親友になっていた彼は、私が高校に通うまでよく遊んだ。

彼の家にも、よく遊びに行った。

高校に入り、私は市内の高校だったが、彼の通う工業専門学校は、遠く御坊市内にあった。

お互いの生活が忙しくなり、すっかり疎遠になっていた彼の消息を知ったのは、偶然だった。

介護の会社を営む友人のもとに、彼が運ばれてきたことからだ。

彼の病は「脊髄小脳変性症」という難病を患っていたからだ。

弱りゆく身体をどうすることもできない不治の病は、まだ53歳の身体にも容赦なく襲いかかった。

そして、今日、友人より彼が亡くなったという連絡を受けた。

「15の春」彼の柔らかな笑顔しか思い出せないのが、悔やまれる・・・。

 

12月 252015
 

時代は、浪曲という芸に接する機会をほぼ失くしてしまった。

ただ、そんな中「国本武春」だけが、今の時代と浪曲との接点を探し求めていた気がする。

巧みにバンジョーを鳴らし、ウエスタン調に浪曲を唸ったり、

十八番の「忠臣蔵」の熱演は、観る者を惹きつけていた。

10年前のパルコ劇場で、人に勧められ拝見した彼の独演会は、

まさに度肝を抜かれる体験をした。

その活躍も、結局は病魔に打ち勝てず、志半ばでの旅立ちとなってしまったことは、

浪曲界だけでなく、日本の芸能文化にとっての損失と言えるだろう・・・。

だれも真似のできない芸当なので、後を継ぐ者もいないだろうが、

「国本武春」の残した浪曲師としての芸は、胸に焼きついたままである。

 

11月 202014
 

日本映画界における唯一無二の存在だった。

映画全盛期から、現在に至るまで、本当の意味での映画俳優と呼べるのは、

「三船敏郎」と「高倉健」の2人しかいない。

もっと凄いことは、60年もの長きに亙り、活躍されてきたのに、一度も「高倉健」の看板を汚すことはなかった。

見事なまでに演じきっての逝去となった。

健さんの主演された映画は、「八甲田山」と「幸せの黄色いハンカチ」くらいしか観ていない私でも、

心の中のどこかに、小さく穴のあいて風が吹き抜けるような寂しさがある。

やはり、日本人の男性像は、多かれ少なかれ寡黙で孤独な「高倉健」なのだ。

亨年83歳。

心より冥福をお祈りします。

 

7月 162014
 

訃報がもたらせれたのは、昨夜のこと。久しぶりに連絡をとった仕事仲間からだった・・・。

「もうお聞き及びと思いますが、あの元気なSさんが亡くなって2ヶ月経ちました。」ということ。

Sさんとは、もう2~3年はお会いしていない。

仕事をご一緒したのは、アメリカ・ニューヨークで起こった同時多発テロを追悼するコンサートを開催したことからだ。

あるプロダクションの社長だったSさんは、業界を生き抜いてきた、あくの強い人柄に、最初は、かなりビビったものだった

でも付き合ううちに、傲慢だが、人一倍寂しがり屋で、演劇好きなオジサンだとわかった。

ケンカしたりもしたが、飲みに連れて行ってくれたり、可愛がってもらった。

公演の打ち上げの際、最後のあいさつの中で

「私は、新聞社の社員って、もっとお堅い感じだと思ってたけどな~。でも、彼のお陰でこの公演は大成功だった。」

とスタッフみんなの前で褒めてくれ、あのSさんにそう言ってもらえたのが、すごく誇らしかったことを今でも覚えている。

これから、Sさんと、現場でお会いできないかと思うと、寂しい・・・。