3月 112014
 

はやいもので、「東北大震災」から、もう3年がたつ。

東北海岸部を一変させ、2万人近くの死者・行方不明者をだした、まさしく未曾有の大災害。

東京に住む我々にとっても、決して忘れることのできない日だ。

ビートたけし氏が書かれた文章を、日本人ひとりひとりが肝に銘じるべきなのだ。

「2万人という数字がひとり歩きすることが怖い。2万人が亡くなったことよりも、一人の死亡事故が2万件あったのだ。」

テレビ各局は、こぞって3年後の被災地にスポットをあてる。

当時、4歳の女の子は、3歳年上の姉を失くし、母親は、お姉ちゃんの死について、どう説明すればいいかを苦悩する。

3年後、姉が通うことができなかった小学校の体験入学会で、「一番好きな人の絵を描きましょう?」との問いかけに、

迷うことをなく、遺影に映る姉の絵を描いた。

3年という年月は、長いようで短く、短いようで長い、そして重い・・・。

3月 112012
 

あれから、1年。

メディアでは、こぞって大特集が組まれ、否が応でも1年前の今日を思い出す。

そんな中、一番衝撃を受けたのが、

FACEBOOKに記されていた、ある投稿。

それは17歳の長女から父親宛に送られた最後のメールだった。

「もうバッテリがないよ
痛いと言わなくなったので
妹はさっき死んだみたいです。(T。T)
埼玉はだいじょうぶですか?
またお父さんと一緒に
ディズニーランドに行きたかったです
お父さん 今までありがとう
だいすきなお父さんへ
本当にありが

享年 長女17才 次女14才 」

真横で妹が死にゆくなか
どんな想いで暗黒と極寒の中、彼女はメールを
残したのでしょう。涙が止みません。

(以上、本文ママ)

こんな悲劇が、1年前、被災地のあちらこちらで起こっていたことを、

決して忘れてはならない・・・。

4月 132011
 

東日本大震災から1カ月がたち、被災地の子どもたちの状況も変わりつつあるという。

被災した直後から、交換日記をはじめた同じ小学校の幼馴染4人組みは、

親にも話せない話をその日記に書いていた。

津波で流され、潰れた家を見た男の子は、日記に「無様な家になった。」と書いた。

4月に入り、3人の子どもたちは、被害の少なかった町に引っ越すことになり、

4人の交換日記は、終わりをつげる。

どんな気持ちで「明るい日がくることは、明日がくるということ。」と記したのだろう・・・。

一日も早い復興を願わずにいられない。

3月 302011
 

昨夜の日本代表とJリーグ選抜のチャリティマッチは素晴らしかった。

試合内容は、お互い調整不足は否めなかったが、こういうチャリティマッチ特有のお祭り気分は影をひそめ

真剣にプレーしていた姿は、感動させるに充分だった。

リーグの最中に、快く送りだしたUEFAのチームはさすがである。

44歳のカズの真摯な姿に、勇気をもらった被災者の方もいたはずだ。

一方、開幕日程でゴタゴタ続きのプロ野球界は、すべての試合をチャリティマッチにするというが・・・。

福岡ドームで日本人メジャーリーガーとプロ野球選抜なんてカード組めないのだろうか・・・?

ナベツネさんの剛腕ってこういう時に使ってこそ、価値があるのでは、と思ってしまう。

3月 242011
 

ほんの2週間前までは日本の首都で最大の都市であることを疑いもしなかった。

東日本大震災・・・大津波・・・福島原発の爆発・・・計画停電と続いたこの2週間が、

首都「東京」を変えた。

スーパーには、水はもちろん、パン、牛乳、卵など必需品は慢性的な品薄で、レジ待ちの長い列が並ぶ。

計画停電中は、その一体が暗闇化し、都市中に節電が席巻し、どこか薄暗い。

海外アーティストは、来日を取り止め、イベンターはチケットの払い戻しに駆け回る。

駅に氾濫していた広告類は撤去され、どの駅前にも声を枯らしながらの募金活動が目に留まる。

これが、今の東京で起こっていることだし、当分は終わりそうにもない。